世の中に「罰(ばち)など迷信である」という人があります。これは罰を「人間の悪事に対する神仏のこらしめ」との理解からなるものと思います。
仏法から罰の理を述べますと、まず人間自身の善悪の行為が因となり、幸・不幸の結果をもたらすと説きます。この善悪の行為を業といい、これによって利益(りやく)もあれば罰も生ずると説くのです。つまり利益と罰の責任は、外にあるのではなく、自分自身にあることをまず知るべきです。私たちの行ないが真の仏法の理に合致すれば福徳となり、それに反すれば罪障ともなり罰を得ることになるのです。
世の現実をみれば、人生は四苦八苦の、実に様々な苦悩や困難が横たわっています。その中にあって、これが罰だのこれが利益だのと他人が軽々に口にできることではないですが、妙法の信仰にその身を置いたとき、自身で罰だと気づくこともでき、それを利益へと転化する力を戴けるのです。
日蓮大聖人は真実の仏法をもって、国家の安泰と人々が幸福となる因果の理法を明かされました。この仏道に人生の喜びがあります。人生をより深く見つめ、味わう道を歩むよう願っております。
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