逆縁の田畑に妙種を植えよう

真心からの忠言は、とかく耳に痛い。素直に聞き入れにくいのである。「忠言耳に逆らう」である。
大聖人は「昔も今も同じことで、人が滅びていくときは、善言(忠告や諫言)を用いないのが習いである。日蓮の言葉も用いられないため、世の中は今、亡びようとしている」(御書635趣意)と仰せになった。鎌倉幕府や権力者は大聖人の諫言を用いず、日本国はその後、蒙古の襲来、さらなる天変地夭の世となった。謗法に埋没していると、世の中の濁りきっている姿が見えないのである。大聖人はそのような世であるからこそ四条金吾殿に次のように仰せになられた。「人の謗りが強くとも、その人々に対し、いよいよ強盛に申し聞かせなさい」(御書636趣意)と。
私たちは少しばかりの折伏をして、それが相手に受け容れられないと、「私には力がないから」「もうこれ以上は」という気持ちになる。しかし、逆縁の田畑に妙種を植えることにこそ折伏の意味となる。結果にとらわれず、真摯なる仏法の対話に臨もうではないか。どこまでも自他ともに歩む幸福人生のために。
