我々は本当に大切なものが見えない衆生である。無明(むみょう)という、前世から引き継いだ分厚い煩悩に覆われているからである。大聖人は、謗法に染まる衆生がその害毒を知らず、歪んだ眼のゆえに法華経を正視できないことを「天空の遠いものと睫毛のように近いものは人には見えない」(御書1219頁 趣意)と、譬えられた。
南条時光の姪に当たる石河兵衛入道の娘、姫御前は病にてお若くして逝去されたが、臨終の際、南無妙法蓮華経と唱え息を引き取った。臨終正念を遂げられたのである。大聖人はこの妙法一途な信心に讃辞をそそがれた。「前世の因縁であろう。あたかも一眼の亀が波間に浮かぶ浮き木の穴に値うようであり、また天から垂れた糸が大地に立てる針の穴に通ったようなことである」(同1218頁 趣意)と。
口唱題目の修行は、仏が今の末法の世のために留めおかれた実践法である。寿量文底の妙法を一切法の根源と受け止め、御本尊に向かい境智冥合の勤行と唱題に励む、これなくして泰然自若なる人生はない。そして共に人々の仏性に妙法の下種をなす助縁の振舞いをもってその徳を表そう。
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